沿革

寛文年間(1661年〜1673年)、高野町村(鷹野郷)高見澤庄左衛門一族の長、橘高明(高見澤 高明:寛文10年(1670年)没、出生年享年は不詳。橘は裏紋。)が家督を譲り仏門を目指し禅風草庵として一宇を開基。
戒名は高明庵心窓後安大居士
現在の當山の山号寺号は開基の戒名が由来である。
当初は光明庵と幾つかの古文書にて確認される。

高見澤家の血筋を辿ると橘諸兄の子孫であるという伝承があり裏紋にて橘高明と名乗る。
高見澤の姓は出雲守廣長の次男が初代であり、高野町村に居を構え、初代庄左衛門である高廣氏の戒名 鷹見院澤巌廣恩居士から戴いたと思われる。(當代庄左衛門、高見澤 誠氏談)

一宇の開山は曹洞宗 桂霄寺 第六世 徳外存春大和尚である。
橘 高明氏 逝去後、その後歴代に曹洞宗の僧侶が在籍。

これより時代は降りて
身延山十七世慈雲院日新上人が整備されたと云われる、
廣照山 光福寺(南佐久郡南牧村廣瀬地区)が明治の廃仏毀釈にて荒廃。該寺の本尊等を當一庵に移転し安置。
この時をもって日蓮宗に改宗。
改宗後の第一世は光明院善正日受上人である。